11月26日放送の「お題」 ◇BGM選手権 : 夜遅く巴里の裏通を歩いていると、一種独特な臭気が、どこからともなく 鼻をついて来る。それが多くは、冬または冬に近い季節の夜である。 私は、いまだに、その臭気が何物の臭であるか、わからずにいるのだが、 それは多分煙草のヤニと、牛の血と、バタの腐ったのと、洗濯物と、 それらの混合した臭ではないかと思っている。 一口に云えば、それが巴里のかの有名な下水の臭かもわからない。 その臭も、日本に帰ってからかなり長く臭がないので、 自然忘れてしまったところ、近頃、ふとその臭を思い出したのである。 思い出したというよりも、その臭と同じ臭が、私の鼻をかすめたのだ。 なんの臭だろう。そう思って、あたりを見まわして見るが、その臭は、どこから 臭って来るのでもなく、実は自分の鼻の孔に籠っているらしいのである。 私は、鼻をくんくん云わせて、この不思議な「臭の幻覚」を追い払おうとしたが、全く無駄であった。 いろいろ研究の結果、それは私が多少とも風邪を引いている時に限るという奇妙な事実を発見したのである。 私は、今また風邪を引いている。そして、幾冬かの間嗅ぎ慣れたかの巴里の夜の 臭を、今、懐かしく嗅ぎ直している。 岸田 國士 作 「風邪一束」(※文中、一部割愛)